① 本堂 (やくしどう) があります
1218年に、”北条義時”(ほうじょうよしとき:鎌倉幕府2代執権)が建てた薬師堂がはじまりと言われています。
[戌神(いぬがみ 別名 伐折羅大将:ばさらたいしょう 十二神将のうちの1尊)が北条義時の夢の中に現れたことをきっかけに、薬師堂を建てたと伝えられています。]
1296年に、北条貞時(ほうじょうさだとき:鎌倉幕府9代執権)は元寇が再び襲来しないように祈り、
智海心慧(ちかいしんえ)を招いてこの薬師堂を「覚園寺」として再びお寺を建てたそうです。
(智海心慧について知りたい方はココをPUSH)
諸説ありますが『吾妻鏡』『覚園寺縁起』によると、
”
北条義時”(鎌倉幕府
2代執権)の夢の中に
十二神将の 「戌神」(いぬがみ) が現れたそうです。
「戌神」は「今年は無事だったが来年の将軍の参拝の時には行列に参加しないほうが良い」と告げました。
驚いた北条義時は十二神将に守ってもらおうと”
薬師堂”を建てました。
その翌年、鶴岡八幡宮で源実朝(鎌倉幕府3代将軍)の右大臣を祝う式典がありました。
北条義時も参加しましたが、体調が悪くなったために源仲章にを代わりに参加してもらいました。
すると代役の源仲章は、源実朝とともに公暁(くぎょう:鎌倉幕府2代将軍源頼家(よりいえ)の三男)に斬り殺されてしまいました。
北条義時は戌神がこのことを警告し助けてくれたのか、と考えました。
そこで北条義時は大倉薬師堂にお礼のために参拝したところ、
事件のあった頃から十二神将の中の「戌神」だけが、何故かいなくなったと聞きました。
そのため”薬師十二神将の「戌神」が、北条義時を災いから護ってくれたのだ”と伝えられるようになりました。
本堂は、
①”藁ぶき”の寄棟造り(よせむねづくり:4方向に傾斜する屋根面をもつ日本の建築様式)
②禅寺ではありませんが、”禅宗様”(ぜんしゅうよう:日本の伝統的な建築様式の1つ。中国(北宋)から伝わった建築様式です。)
③”方五間”(正面と側面に柱と柱に5つの壁があります)
で造られています。
①”後醍醐天皇”は覚園寺を”祈願寺”としていたと言われています。
(祈願寺について知りたい方はココをPUSH)
②”足利氏”は覚園寺を”祈願所”としていたと言われています。
③”歴代の北条家”(鎌倉幕府・執権)が”崇拝していたお寺”だと言われています。
境内は国の史跡に指定されています。
(史跡について知りたい方はココをPUSH)
①「本尊の薬師如来」がいらっしゃいます
”国の重要文化財です”
(薬師如来について知りたい方はココをPUSH)
②「日光菩薩」がいらっしゃいます
”国の重要文化財です”
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③「月光菩薩」がいらっしゃいます
”国の重要文化財です”
④「十二神将」がいらっしゃいます
”頭の上にそれぞれ十二支の動物がいらっしゃいます”
”国の重要文化財です”
⑤「阿弥陀如来」がいらっしゃいます
”理智光寺の本尊でした”
”鎌倉市二階堂にあった廃寺です”
(阿弥陀如来について知りたい方はココをPUSH)